Emile Durkheim
The Rationality of Social Institution
(社会制度の合理性)
・事実、社会学の本質的な公準は、人類の制度は誤謬と欺瞞とに安住できないというにある。これなしには人類の制度は継続しえなかったのである。この制度が事物の本性に基礎をおかなかったとしたら、事物の中で克服しがたい障害に出会ったことであろう。したがって、われわれが原始諸宗教の研究を始める時、これらの原始宗教は現実に即しまた現実を表しているとの確信によるのである。この原則は以下の分析や論議のうちに絶えず出てくるであろう。そして、われわれが袂別した諸学派に対して非難する点はこの原則を否認したことにあることは明らかである。もちろん法式に現れた文字だけを考えると、これらの宗教上の信仰や行事は時には蕪雑にも見えるので、これを一種の根強い錯誤に帰したがることがある。しかしわれわれは象徴のもとで、これが描き出しまたこれに真の意味を与えている実在に達し得なければならない。もっとも野蛮または無稽な儀礼も、もっとも奇異な神話も、人間の何かの欲求、個人的または社会的生活の何かの一面を表現しているのである。信者が自らは正当と思っている理由が誤りであることはありうるし、またしばしばそうである。それでも真実の理由がないわけではない。これを発見するのが科学の任務である。(上,19ページ)
(社会学の対象としての無差別性)
・これを要するに、偽りの宗教は存在するものでない。あらゆる宗教はそのまま真実である。すべては様式こそ異なれ人間生存の一定の条件に応じているのである。もちろん、序列をつけその [改ページ] 順位にしたがってそれらを配列することもできない。ある宗教は他のよりもある意味で高級だといえる。すなわちいっそう進んだ心的機能を働かせ、観念や感情が豊かであり、概念が多くて感覚や心象が少なく、またその組織化がより高級であるという意味で。しかし、たとえ、その複雑さが実際にいっそう大であり、また理念がいっそう高井としても、それをもって対応している宗教を別種のものとするには足りない。もっともみすぼらしい成形細胞から人類にいたるまで、生物は等しく生物であると同じように、宗教はすべて等しく宗教である。(上,19-20ページ)
・事実、社会学の本質的な公準は、人類の制度は誤謬と欺瞞とに安住できないというにある。これなしには人類の制度は継続しえなかったのである。この制度が事物の本性に基礎をおかなかったとしたら、事物の中で克服しがたい障害に出会ったことであろう。したがって、われわれが原始諸宗教の研究を始める時、これらの原始宗教は現実に即しまた現実を表しているとの確信によるのである。この原則は以下の分析や論議のうちに絶えず出てくるであろう。そして、われわれが袂別した諸学派に対して非難する点はこの原則を否認したことにあることは明らかである。もちろん法式に現れた文字だけを考えると、これらの宗教上の信仰や行事は時には蕪雑にも見えるので、これを一種の根強い錯誤に帰したがることがある。しかしわれわれは象徴のもとで、これが描き出しまたこれに真の意味を与えている実在に達し得なければならない。もっとも野蛮または無稽な儀礼も、もっとも奇異な神話も、人間の何かの欲求、個人的または社会的生活の何かの一面を表現しているのである。信者が自らは正当と思っている理由が誤りであることはありうるし、またしばしばそうである。それでも真実の理由がないわけではない。これを発見するのが科学の任務である。(上,19ページ)
(社会学の対象としての無差別性)
・これを要するに、偽りの宗教は存在するものでない。あらゆる宗教はそのまま真実である。すべては様式こそ異なれ人間生存の一定の条件に応じているのである。もちろん、序列をつけその [改ページ] 順位にしたがってそれらを配列することもできない。ある宗教は他のよりもある意味で高級だといえる。すなわちいっそう進んだ心的機能を働かせ、観念や感情が豊かであり、概念が多くて感覚や心象が少なく、またその組織化がより高級であるという意味で。しかし、たとえ、その複雑さが実際にいっそう大であり、また理念がいっそう高井としても、それをもって対応している宗教を別種のものとするには足りない。もっともみすぼらしい成形細胞から人類にいたるまで、生物は等しく生物であると同じように、宗教はすべて等しく宗教である。(上,19-20ページ)
「宗教生活の原初形態」(1912年) (Les Formes Élémentaires del la Vie Religieuse: Le Système Totémique en Australie)(岩波文庫,1941年,古野清人訳) .