Frequently Asked Questions
サッカーのゲーム—社会的相互行為の一例
Q: 法社会学の観点からすると、法学と社会学はどういう関係にありますか? (2012.10.22)
法学と社会学の関係については、まず、それは重要な問題だと申し上げておきます。抽象的に考えるよりも、歴史的展開をもとにして考えると便利でしょう。17世紀以降の近代ヨーロッパの学問の歴史のなかでは、法学と社会思想は19世紀までは分離していませんでした。19世紀には経済学がこのなかから独立していきました(アダムスミスやマルクスは経済思想家であるとともに社会思想家です)。社会学が学問的に自立したのは、20世紀のはじめと言えます(ドイツのマックス・ウェーバーなど、フランスのエミール・デュルケムなど、アメリカのパーソンズなど)。法学は、その後、学問というよりは職業教育となったと考えられます。そこで、よく言われることかと思いますが、法学と社会学との間の関係は、医学と生物学(人間も含めて)の間の関係と似ていると思います。医師が用いる知識(法律家では法学にあたる)は、生物学に基礎がありますが、医師は生物学者ではありませんし、生物学的な観点から人間を見ているわけではありません(特定の病気かどうかに関心をもちます)。同様に、法学者や法律専門家は、社会学に基礎のある知識を利用します(先週の教材(Heritage & Clayman 2010:24)で、問いと答えの関係について書かれていた箇所で、黙秘権という法制度について触れられていたのはその例です)が、社会学者ではありません。社会学や法社会学は、法学の基礎にありますが、法学そのものではありません。しかし、社会学や法社会学は、法学のテーマを、より深く研究するためのものの見方を提供しています。
法学と社会学の関係については、まず、それは重要な問題だと申し上げておきます。抽象的に考えるよりも、歴史的展開をもとにして考えると便利でしょう。17世紀以降の近代ヨーロッパの学問の歴史のなかでは、法学と社会思想は19世紀までは分離していませんでした。19世紀には経済学がこのなかから独立していきました(アダムスミスやマルクスは経済思想家であるとともに社会思想家です)。社会学が学問的に自立したのは、20世紀のはじめと言えます(ドイツのマックス・ウェーバーなど、フランスのエミール・デュルケムなど、アメリカのパーソンズなど)。法学は、その後、学問というよりは職業教育となったと考えられます。そこで、よく言われることかと思いますが、法学と社会学との間の関係は、医学と生物学(人間も含めて)の間の関係と似ていると思います。医師が用いる知識(法律家では法学にあたる)は、生物学に基礎がありますが、医師は生物学者ではありませんし、生物学的な観点から人間を見ているわけではありません(特定の病気かどうかに関心をもちます)。同様に、法学者や法律専門家は、社会学に基礎のある知識を利用します(先週の教材(Heritage & Clayman 2010:24)で、問いと答えの関係について書かれていた箇所で、黙秘権という法制度について触れられていたのはその例です)が、社会学者ではありません。社会学や法社会学は、法学の基礎にありますが、法学そのものではありません。しかし、社会学や法社会学は、法学のテーマを、より深く研究するためのものの見方を提供しています。
Q: 法は人や集団の現実の行動にいかに影響を与えるのでしょうか。 (2012.10.25)
ルールはいかにして秩序を作るか?
ある行動に法的正当性が認められる場合とそうでない場合を比較するという仕方で考えてみましょう。いま法的正当性の認証のあることを(L+)と表現し、それがないことを(L-)と表現しましょう(LはLegality/LegitimacyのL)。禁漁期間に漁をすることは(L-)の漁であり、漁が解禁された期間に漁をすることは(L+)の漁と表現できます。前者は一般に違法行為(L-)(A)であり、後者は一般に合法行為(L+)(A)と表現できます(AはActionまたはAct のA)。しかし、(L-)と表現できる行為としては、さらに、禁漁期間がまったく定められていない場合もあることに注意しましょう(つまり、法的正当性がないということを、禁止されているということと同一視しないことにします。しかし、別の考え方も工夫すればなりたつでしょう)。
質問は、ひとまず、(L+)または(L-)であることが、Aにどんな変化をもたらすか、ということだと理解できます。「ひとまず」というのは、つぎの問題があるからです。それは、2種類の(L-)には違いがあるのかないのか、というものです。マックス・ウェーバーは、この問題について折衷的態度をとりました。それはつぎのようなものです。
『社会学の根本概念』(1922年)(岩波文庫・清水幾太郎訳・1972年)において、ウェーバーはおおむね「秩序ある社会関係」とよべるものについてつぎのように述べています。
「第6項 社会的関係を永続的に作り上げるような意味内容は、『原則』という形で表現されることがある。この場合、当事者は、単数あるいは複数の相手が右の原則を平均的に、あるいは、近似的な意味で守るものと期待し、また、自分の行動も平均的および近似的にこの原則に従わせる。その行為の一般的性格から見て、方向が合理的—目的合理的あるいは価値合理的—であればあるほど、右のような状態になる。ところが、恋愛その他の感情(例えば、信頼)に基づく関係においては、当然、考えられた意味内容の合理的表現の可能性は、業務上の契約関係などにくらべて著しく少ないものである。」(45ページ)
ここでウェーバーが述べているのは、問題になる行為が合理的であればあるほど、(L+)(A)は、その行為がその間で行われる人々の関係をつぎの引用に見られる「ゲゼルシャフト関係」に近づけるということです。また、恋愛関係や信頼関係の場合には、(L+)(A) あまり見られないとも言われています。 これらの主張はじつは折衷的決定を反映しています。このことを理解するために、より以前の著作を見てみます。
(1) ウェーバーは、『理解社会学のカテゴリー』(1913年)(岩波文庫・林道義訳・1968年)では、「ある定律(=Ordnung 秩序)を根拠にして目的合理的に制定された定律にもとづく社会関係(「ゲゼルシャフト関係」)について、つぎのように述べています。
「さて、ある行為が主観的に意味をもって、ある制定された定律を『規準にして行われる』ということは、第1に、ゲゼルシャフト関係にある人々によって主観的に企てられた行為に、彼らの実際の行為もまた客観的に一致するということを、意味することができる。・・
さらに、行為がある制定された定律を『規準にする』ということは、ゲゼルシャフト関係にある人々によって主観的に理解された定律の意味に意識的に違反して行われる、という形でも存在しうる。また、ある人が彼によって理解されたトランプ遊びの定律に意識的に、かつ故意に違反したとしても、つまり『いかさま』をしたとしても、それにもかかわらず彼は、競技を続けることを拒む人々とはちがって、『競技仲間』として依然としてゲゼルシャフト関係にあるのである。まったく同様に、『泥棒』や『人殺し』は、彼が主観的に意識的に意味をもって背くところのまさにその定律を、彼の行動の機運にしているのであるが、それは、その定律に背くにもかかわらず、彼が自分の行為と自分自身とを隠すということによってなのである。
それゆえ、目的合理的に制定された定律の経験的『実効性(Geltung)』にとって決定的なことは、個々の行為者たちが彼ら自身の行為を、彼らによって主観的に解釈された意味内容にたえず一致させて行うということではない。」(40-41ページ。強調は引用者)
ここでウェーバーが注意を促しているのは、「ゲゼルシャフト関係」では、(L-)(A)もまた、(L+)(A)とおなじような仕方で解釈できるということです。つまり、ゲゼルシャフト関係は、(L+)(A)から構成されているのではありません。しかしもちろん(L-)(A)と(L+)(A)とから成り立つと言ったのでは、ほとんど意味がわかりません。ウェーバーがゲゼルシャフト関係の定義的特徴としたのは、ひきつづいて述べられるつぎの事情です。それはとりわけ(L-)(A)において顕示的になるものです。
「むしろ、それは2つのことを意味しうる。すなわち、1.いかさま賭博師や泥棒と同様に、個々人は平均的には、次のような期待を、すなわち他のゲゼルシャフト関係にある人々が行動する場合には、その人々は制定された定律を守ることを彼らの行為の規範とする『かのごとくに』平均的には行動するであろうという期待を、事実上(主観的に)抱くことができたということ。2.個々人は、人間の行動の可能性についての平均的に使用されうる判断に従って、そうした期待を客観的に抱くことができた(『適合的因果連関』の範疇の特殊な構成)ということを。論理的には両者(1と2)は、それ自体としては、厳密に区別しなければならない。前者は、観察の対象となる行為者の側に主観的に存在するような、つまり研究者によって『平均的に』存在すると認められるような、事実である。後者は、認識主体(研究者)によって、当事者が持っていると思われる知識と思惟習慣を考慮に入れて、客観的に計算しうる可能性である。」(41ページ)
もともとウェーバーによれば社会的行為は、他者の行為への期待を基礎にして、自己の行為の結果を予見するという、2重の予見を意味として含んでいるものでした。(36ページ。「とくに、ゲマインシャフト行為の重要な通常の—不可欠の、というわけではないにしろ—構成要素をなしているのは、その行為が、他人の一定の行動に対する期待と、その期待によれば自分の行為の結果がどうなるかについて(主観的に)見積もられた可能性(=Chance)とを規準にして、意味をもって行われるということである。その場合に、行為の最も理解可能で重要な説明根拠は、この可能性の客観的な存在である。すなわち、この期待が正しく抱かれているという、『客観的可能性判断』として表現されうるところの代償の客観的可能性である」—この社会的行為のイメージは、パーソンズにおいては、目的合理的行為を中心とした行為イメージのもとで、目的実現のダブル・コンティンジェンシーとして、定式化されていきます)。
(2) そこで、とりわけ重要なことは、ある秩序内容(たとえばトランプゲームの規則)を「規準とする」ということは、当事者がその規則を守るとか、守りたいとかと考えることではまったくなく、(2-1) 相互行為する他者がその規則を守るかのように行動するだろうと、(2-2) その当事者が期待できるという事情のもとで、(2-3)当事者がそう期待した(はず)だと、(2-4)研究者が判断できることだという、ウェーバーの注意深い指摘です。(2-1) は秩序の行動的側面をあらわしていると言え、(2-3) は秩序の主観的側面をあらわしていると言えるでしょう。これに対して、(2-2) は当事者が(1)を認識するために行う客観的因果連関判断であり、(2-4) は研究者が(1)〜(3)を認識するために行う客観的因果連関判断です。
(3) ウェーバーは、この2種の客観的因果連関判断が異なる判断であるため、「ゲゼルシャフト関係」の存在ということの意味として提案した、1と2は、論理的に独立のものだと指摘することになります。けれども、ウェーバーは、ひきつづきつぎのように述べ、両者は実際上は同一とみなしてよい、ないし、便宜上同一とみなすべきだ、と主張します。かれの社会学の基礎には、論理的に区別されるべきものを便宜上同一のものとみなすという、折衷的決定とよべるものがあるわけです。
「しかし、社会学は、一般的な概念を構成するに際して、行為の当事者たちもまた主観的には、そうした可能性の評価のために必要な把握の『能力』を平均的にもっているとみなすのである。すなわち、社会学は、理念型的にしかいい得ないことであるが、客観的に存在している平均的可能性が、目的合理的な行為者によってもまた、平均的に主観的に近似的に計算に入れられるということを、前提とするのである。それゆえ、われわれにとってもまた、ある定律の経験的『実効性』とは、平均的な期待が客観的な根拠を持っているということ(『客観的可能性』の範疇)を意味することにしよう。もっともこのことは、主観的にその意味ないように応じて平均的に期待を規準にして行われる行為が、そのときどきに平均的に実際に可能な一連の事実計算によって、われわれにとって『適合的に関連している』ものとみなされるという、特殊な意味においてであるが。したがって、その場合には、可能な期待を客観的に評価することができるという可能性は、行為者たちの側にそうした期待が実際にありうるかどうかを知るための充分な、理解しうる認識根拠としても機能する。こうなると両者は事実上、表現の上では、どうしてもほとんど一致することになる。しかし、その場合にも、もちろんのことながら、論理上の深淵が消えてしまうわけではない。ただし、そのような(期待を客観的に評価でいるという)可能性が、行為者たちの主観的な期待にとって意味をもって根拠として役立つことが平均的にできるということ、『したがって』実際に(相当の程度まで)役立ったということは、明らかに、「ここでは」最初に考えられた意味において、すなわち、客観的可能性判断として考えられているのである。」(42ページ、強調は引用者)。
そこで、(1)〜(3)を念頭におき、最初の問題にもどって、ある行為が合法化/違法化されるとか、法的に認証される/または認証を失うと、社会学的には何が起こるかを考えましょう。「ある行為が合法化/違法化されるとか、法的に認証される/または認証を失う」ということを、法的認証(の付与・剥奪)とよびましょう。法的認証がなされると、人々は、少なくともそれを行うことのできる政治的権力をもつ人々がいるということ、そして彼らがその意味にしたがって行為に対して反応しようとすることを知ることになるでしょう。そうすると、人々は、自己の行為を行なう際に、有力な他者が法的認証にしたがっているかのように行動すると判断するでしょう。人々が、法的認証の付与/剥奪の対象となった行為を見る見方やそれを行う方法は、有力な他者をどうみるかの態度にしたがって、変化するでしょう。ただし、それは、人々が、客観的因果連関判断を、研究者と同様に行うという条件が満たされる場合です。すなわち、これは、法が個人や集団の行為をどう変化させるかという問題に対する、ウェーバーの回答です。
この条件を置かない場合には、研究者は、当事者の客観的因果判断をそれ自体として(理解の方法を用いずに)理解するという方針をとらなければなりません。それはエスノメソドロジーの方針と重なるでしょう。実は、他者が(L+)または(L-)という判断を行ったということを知るだけでは、当事者は他者の行為を予見することはできません。当事者自身が、(L+)または(L-)と言う判断ができなければなりません—他者が規範にしたがうかのような行動をとるかを予見するには、自分自身がその規範にしたがうことが、想像上にせよ、可能でなければならないでしょう。組み立て式家具のマニュアル(指図書)で、ある部品とある部品をつなぐと指示されているとき、読者は「何かが指示されている」ということを理解できますが、それだけではたりません(Garafinkel 2002 参照)。その細部をおぎなってルール追従行動がイメージできないとき—たとえば「コンピュータ式のミシンと電子式のミシンとでは、初心者には前者がおすすめです」と言われる場合には、もし、2種類のミシンの違いをある程度知らないと—受け手は、判断に困るという感じを持ちます。そこで、たいていの日常的規則—たとえば「図書館は研究・学習するためのエリアです」という規則(上掲の写真)—は、それを読む人が「—その追従ができる—「図書館で研究・学習すること」ができる—(あるいはそれを想像することができる)ことを前提して作られています。専門的領域では、法学(法解釈学)は、法にしたがう行為の想像を提供することを大きな任務としています。法認識および法追従は一つのものであり、個々の法場面で行われるメンバーの判断が経験的解明の対象です。それらはおそらくウェーバーが社会学(や歴史学)の方法として定式化した客観的因果判断(これが起こらなかったらあれが起こらなかったであろう)とはおおいに異なるでしょう。
(2012.10.25)
質問は、ひとまず、(L+)または(L-)であることが、Aにどんな変化をもたらすか、ということだと理解できます。「ひとまず」というのは、つぎの問題があるからです。それは、2種類の(L-)には違いがあるのかないのか、というものです。マックス・ウェーバーは、この問題について折衷的態度をとりました。それはつぎのようなものです。
『社会学の根本概念』(1922年)(岩波文庫・清水幾太郎訳・1972年)において、ウェーバーはおおむね「秩序ある社会関係」とよべるものについてつぎのように述べています。
「第6項 社会的関係を永続的に作り上げるような意味内容は、『原則』という形で表現されることがある。この場合、当事者は、単数あるいは複数の相手が右の原則を平均的に、あるいは、近似的な意味で守るものと期待し、また、自分の行動も平均的および近似的にこの原則に従わせる。その行為の一般的性格から見て、方向が合理的—目的合理的あるいは価値合理的—であればあるほど、右のような状態になる。ところが、恋愛その他の感情(例えば、信頼)に基づく関係においては、当然、考えられた意味内容の合理的表現の可能性は、業務上の契約関係などにくらべて著しく少ないものである。」(45ページ)
ここでウェーバーが述べているのは、問題になる行為が合理的であればあるほど、(L+)(A)は、その行為がその間で行われる人々の関係をつぎの引用に見られる「ゲゼルシャフト関係」に近づけるということです。また、恋愛関係や信頼関係の場合には、(L+)(A) あまり見られないとも言われています。 これらの主張はじつは折衷的決定を反映しています。このことを理解するために、より以前の著作を見てみます。
(1) ウェーバーは、『理解社会学のカテゴリー』(1913年)(岩波文庫・林道義訳・1968年)では、「ある定律(=Ordnung 秩序)を根拠にして目的合理的に制定された定律にもとづく社会関係(「ゲゼルシャフト関係」)について、つぎのように述べています。
「さて、ある行為が主観的に意味をもって、ある制定された定律を『規準にして行われる』ということは、第1に、ゲゼルシャフト関係にある人々によって主観的に企てられた行為に、彼らの実際の行為もまた客観的に一致するということを、意味することができる。・・
さらに、行為がある制定された定律を『規準にする』ということは、ゲゼルシャフト関係にある人々によって主観的に理解された定律の意味に意識的に違反して行われる、という形でも存在しうる。また、ある人が彼によって理解されたトランプ遊びの定律に意識的に、かつ故意に違反したとしても、つまり『いかさま』をしたとしても、それにもかかわらず彼は、競技を続けることを拒む人々とはちがって、『競技仲間』として依然としてゲゼルシャフト関係にあるのである。まったく同様に、『泥棒』や『人殺し』は、彼が主観的に意識的に意味をもって背くところのまさにその定律を、彼の行動の機運にしているのであるが、それは、その定律に背くにもかかわらず、彼が自分の行為と自分自身とを隠すということによってなのである。
それゆえ、目的合理的に制定された定律の経験的『実効性(Geltung)』にとって決定的なことは、個々の行為者たちが彼ら自身の行為を、彼らによって主観的に解釈された意味内容にたえず一致させて行うということではない。」(40-41ページ。強調は引用者)
ここでウェーバーが注意を促しているのは、「ゲゼルシャフト関係」では、(L-)(A)もまた、(L+)(A)とおなじような仕方で解釈できるということです。つまり、ゲゼルシャフト関係は、(L+)(A)から構成されているのではありません。しかしもちろん(L-)(A)と(L+)(A)とから成り立つと言ったのでは、ほとんど意味がわかりません。ウェーバーがゲゼルシャフト関係の定義的特徴としたのは、ひきつづいて述べられるつぎの事情です。それはとりわけ(L-)(A)において顕示的になるものです。
「むしろ、それは2つのことを意味しうる。すなわち、1.いかさま賭博師や泥棒と同様に、個々人は平均的には、次のような期待を、すなわち他のゲゼルシャフト関係にある人々が行動する場合には、その人々は制定された定律を守ることを彼らの行為の規範とする『かのごとくに』平均的には行動するであろうという期待を、事実上(主観的に)抱くことができたということ。2.個々人は、人間の行動の可能性についての平均的に使用されうる判断に従って、そうした期待を客観的に抱くことができた(『適合的因果連関』の範疇の特殊な構成)ということを。論理的には両者(1と2)は、それ自体としては、厳密に区別しなければならない。前者は、観察の対象となる行為者の側に主観的に存在するような、つまり研究者によって『平均的に』存在すると認められるような、事実である。後者は、認識主体(研究者)によって、当事者が持っていると思われる知識と思惟習慣を考慮に入れて、客観的に計算しうる可能性である。」(41ページ)
もともとウェーバーによれば社会的行為は、他者の行為への期待を基礎にして、自己の行為の結果を予見するという、2重の予見を意味として含んでいるものでした。(36ページ。「とくに、ゲマインシャフト行為の重要な通常の—不可欠の、というわけではないにしろ—構成要素をなしているのは、その行為が、他人の一定の行動に対する期待と、その期待によれば自分の行為の結果がどうなるかについて(主観的に)見積もられた可能性(=Chance)とを規準にして、意味をもって行われるということである。その場合に、行為の最も理解可能で重要な説明根拠は、この可能性の客観的な存在である。すなわち、この期待が正しく抱かれているという、『客観的可能性判断』として表現されうるところの代償の客観的可能性である」—この社会的行為のイメージは、パーソンズにおいては、目的合理的行為を中心とした行為イメージのもとで、目的実現のダブル・コンティンジェンシーとして、定式化されていきます)。
(2) そこで、とりわけ重要なことは、ある秩序内容(たとえばトランプゲームの規則)を「規準とする」ということは、当事者がその規則を守るとか、守りたいとかと考えることではまったくなく、(2-1) 相互行為する他者がその規則を守るかのように行動するだろうと、(2-2) その当事者が期待できるという事情のもとで、(2-3)当事者がそう期待した(はず)だと、(2-4)研究者が判断できることだという、ウェーバーの注意深い指摘です。(2-1) は秩序の行動的側面をあらわしていると言え、(2-3) は秩序の主観的側面をあらわしていると言えるでしょう。これに対して、(2-2) は当事者が(1)を認識するために行う客観的因果連関判断であり、(2-4) は研究者が(1)〜(3)を認識するために行う客観的因果連関判断です。
(3) ウェーバーは、この2種の客観的因果連関判断が異なる判断であるため、「ゲゼルシャフト関係」の存在ということの意味として提案した、1と2は、論理的に独立のものだと指摘することになります。けれども、ウェーバーは、ひきつづきつぎのように述べ、両者は実際上は同一とみなしてよい、ないし、便宜上同一とみなすべきだ、と主張します。かれの社会学の基礎には、論理的に区別されるべきものを便宜上同一のものとみなすという、折衷的決定とよべるものがあるわけです。
「しかし、社会学は、一般的な概念を構成するに際して、行為の当事者たちもまた主観的には、そうした可能性の評価のために必要な把握の『能力』を平均的にもっているとみなすのである。すなわち、社会学は、理念型的にしかいい得ないことであるが、客観的に存在している平均的可能性が、目的合理的な行為者によってもまた、平均的に主観的に近似的に計算に入れられるということを、前提とするのである。それゆえ、われわれにとってもまた、ある定律の経験的『実効性』とは、平均的な期待が客観的な根拠を持っているということ(『客観的可能性』の範疇)を意味することにしよう。もっともこのことは、主観的にその意味ないように応じて平均的に期待を規準にして行われる行為が、そのときどきに平均的に実際に可能な一連の事実計算によって、われわれにとって『適合的に関連している』ものとみなされるという、特殊な意味においてであるが。したがって、その場合には、可能な期待を客観的に評価することができるという可能性は、行為者たちの側にそうした期待が実際にありうるかどうかを知るための充分な、理解しうる認識根拠としても機能する。こうなると両者は事実上、表現の上では、どうしてもほとんど一致することになる。しかし、その場合にも、もちろんのことながら、論理上の深淵が消えてしまうわけではない。ただし、そのような(期待を客観的に評価でいるという)可能性が、行為者たちの主観的な期待にとって意味をもって根拠として役立つことが平均的にできるということ、『したがって』実際に(相当の程度まで)役立ったということは、明らかに、「ここでは」最初に考えられた意味において、すなわち、客観的可能性判断として考えられているのである。」(42ページ、強調は引用者)。
そこで、(1)〜(3)を念頭におき、最初の問題にもどって、ある行為が合法化/違法化されるとか、法的に認証される/または認証を失うと、社会学的には何が起こるかを考えましょう。「ある行為が合法化/違法化されるとか、法的に認証される/または認証を失う」ということを、法的認証(の付与・剥奪)とよびましょう。法的認証がなされると、人々は、少なくともそれを行うことのできる政治的権力をもつ人々がいるということ、そして彼らがその意味にしたがって行為に対して反応しようとすることを知ることになるでしょう。そうすると、人々は、自己の行為を行なう際に、有力な他者が法的認証にしたがっているかのように行動すると判断するでしょう。人々が、法的認証の付与/剥奪の対象となった行為を見る見方やそれを行う方法は、有力な他者をどうみるかの態度にしたがって、変化するでしょう。ただし、それは、人々が、客観的因果連関判断を、研究者と同様に行うという条件が満たされる場合です。すなわち、これは、法が個人や集団の行為をどう変化させるかという問題に対する、ウェーバーの回答です。
この条件を置かない場合には、研究者は、当事者の客観的因果判断をそれ自体として(理解の方法を用いずに)理解するという方針をとらなければなりません。それはエスノメソドロジーの方針と重なるでしょう。実は、他者が(L+)または(L-)という判断を行ったということを知るだけでは、当事者は他者の行為を予見することはできません。当事者自身が、(L+)または(L-)と言う判断ができなければなりません—他者が規範にしたがうかのような行動をとるかを予見するには、自分自身がその規範にしたがうことが、想像上にせよ、可能でなければならないでしょう。組み立て式家具のマニュアル(指図書)で、ある部品とある部品をつなぐと指示されているとき、読者は「何かが指示されている」ということを理解できますが、それだけではたりません(Garafinkel 2002 参照)。その細部をおぎなってルール追従行動がイメージできないとき—たとえば「コンピュータ式のミシンと電子式のミシンとでは、初心者には前者がおすすめです」と言われる場合には、もし、2種類のミシンの違いをある程度知らないと—受け手は、判断に困るという感じを持ちます。そこで、たいていの日常的規則—たとえば「図書館は研究・学習するためのエリアです」という規則(上掲の写真)—は、それを読む人が「—その追従ができる—「図書館で研究・学習すること」ができる—(あるいはそれを想像することができる)ことを前提して作られています。専門的領域では、法学(法解釈学)は、法にしたがう行為の想像を提供することを大きな任務としています。法認識および法追従は一つのものであり、個々の法場面で行われるメンバーの判断が経験的解明の対象です。それらはおそらくウェーバーが社会学(や歴史学)の方法として定式化した客観的因果判断(これが起こらなかったらあれが起こらなかったであろう)とはおおいに異なるでしょう。
(2012.10.25)