Max Weber
The "Understanding" of Action
(人間行動の固有の性質としての、「理解」による解明可能性)
・人間の「外的」または「内的」行動は、あらゆる出来事がそうであるように、その成り行きのうちに、いろいろな関係やいろいろな規則性をもっている。しかし少なくとも完全な意味で人間の行動にのみ固有なことは、そうした諸関係や諸規則性の経過を、理解可能なかたちで解明しうるということである。(13ページ)
(目的合理的解明のもつ明証性と感情の類型的経過による解明のもつ明証性)
・もっとも高い「明証性」をもっているのは、目的合理的解明である。目的合理的行動とは、(主観的に)一義的に把えられた目的に対して適合的なものであると(主観的に)考えられた手段を、もっぱら規準にして行われる行動を指すことにしよう。決して目的合理的な行為のみがわれわれにとって理解できるというわけではない。われわれは感情の類型的な経過や、それが行動に対してもたらす推計的な諸結果をも「理解する」。「理解しうるもの」は経験科学にとっては流動的な境界をもっている。(14ページ)
(行為とは考えられた意味をもつ特殊な行動である)
・「行為」というのは、われわれにとっては常に次のようなものである。つまり、「客体」に対する行動のうちで理解可能なもの、すなわち、たとえ多かれ少なかれ無意識であっても、何らかの「懐かれた」あるいは「考えられた」(主観的な)意味をもった特殊な行動のことである。(たとえば)仏教の瞑想やキリスト教の心情的禁欲は、行為者たちにとって「内面的な」諸対象へと、また人間による物財の合理的な経済的な処理は「外的な」客体へと、それぞれ主観的に意味をもって関係させられる。(16ページ)
(理解は心理学的範疇の使用ではない)
・意味をもった関係が同じであることは、作用している「心的な」状態が同じであることを、ただちに意味するわけではない。たとえば「利益追求」というような範疇は「心理学」の中には全然ない。(17ページ)
(理解は、心理学的演繹ではない)
・理解社会学は「心理学」の一部ではない。・・人がそうした行為を「説明する」という場合には、それは絶対に、その行為を「心的な」事態から演繹するという意味ではない。むしろ・・・客体の行動について主観的に懐かれた期待(主観的な目的合理性)から、および妥当な経験に従ったら懐かれたであろう期待(客観的な整合合理性)から、そしてまったくこの両者のみから、演繹するということである。(20ページ)
(主に心理学的な理解可能性)
・「整合合理的に」経過する行為が、いずれも主観的に目的合理的に規定されていたわけではないということを社会学は承知している。またとくに現実の行為を規定しているのは、論理的に合理的に推論しうる諸関係ではなくて、—いわゆる—「心理学的」諸関係であるということも、社会学にとっては自明のことである。たとえば論理的には、神秘的—瞑想的な宗教意識からは他人の救いに対する無関心が、予定信仰からは宿命論や倫理的無律法主義さえもが、「結論」として推論されうる。しかし実際には、前者は、一定の典型的な場合には、一種のオイフォリー(Euphorie)にまで行きつくことがある。このオイフォリーというのは,主観的には独特の無対象の愛の感情として「懐か」れる—そのかぎりで少なくとも部分的に「理解できない」関係が存在している—。そしてこの感情は、社会的行為の中では、しばしば「愛の無差別主義(Liebesakosmisms)」として「消散させ」られてしまう。これはもちろん目的合理的にではないが、おそらく心理学的に「理解しうる」関係である。また予定信仰は特定の(完全に理解しうる)諸条件があれば、積極的に倫理的な行為への能力を、信者にとって彼の個人的な至福の認識根拠にしてしまうことができる。しかもそれは特殊に合理的に理解しうる仕方で行われるのである。そおうえこの資質を一部は目的合理的に、一部は意味をくまなく理解しうるような仕方で満開させることができる。しかし他方においては、予定信仰の立場それ自体は、(前もっと)はっきりと定められていてしかもその諸関係の意味を理解しうるところの人生の運命と、(与えられてものとして甘受しなければならない)「性格」的資質との産物でありうる。このことは「心理学的に」理解しうることである。
要するに、理解社会学にとっては「心理学」との関係は、それぞれの個々の場合において、さまざまである。理解社会学にとって、客観的な整合合理性は、経験的行為に対して理念型として役立つ。目的合理性は心理学的に意味を理解できるものに対して、意味を理解しうるものは理解してないかたちで動機づけられた行為に対して、理念型として役立つ。この理念型と比較することによって、因果的に重要な非合理性(そのときどきでさまざまな語義をもつ)が、因果帰属の目的のために確定されるのである。」(27-28ページ)
(理解可能性と因果性は結合している)
・たしかに「理解」と因果的「説明」とは、出来事のまったく反対の極で研究を始めるのであり、とりわけある行動の統計的頻度はその行動の意味を「いっそう理解しうる」ものにはいささかもしないし、また最大限の「理解可能性」があっても、それだけでは頻度があるということを全然意味しない。それどころか完全な主観的目的合理性の場合には、たいていは頻度が少ないものである。以上のことはたしかに正しいことである。しかしたとえそれがどんなに正しいことであっても、もし社会学が反対するmのがあるとしたら、それは「理解」と因果的「説明」が互いに何らの関係ももっていないという前提である。・・・意味を理解された精神的諸関係や、とくに目的合理的に行われる動機づけの諸経過は、社会学にとっては、因果の連鎖の諸環としてあらわれる資格を完全にもっているからである。・・それはわれわれにとっては、次の場合には使用可能な仮説とみなされれる。すなわち、主観的に意味のある動機づけの連鎖が存在していることの、一定の程度の—その程度は個々の場合できわめてさまざまであるが--「可能性(Chance)」をわれわれが仮定することのできる場合である。(29ページ)
・人間の「外的」または「内的」行動は、あらゆる出来事がそうであるように、その成り行きのうちに、いろいろな関係やいろいろな規則性をもっている。しかし少なくとも完全な意味で人間の行動にのみ固有なことは、そうした諸関係や諸規則性の経過を、理解可能なかたちで解明しうるということである。(13ページ)
(目的合理的解明のもつ明証性と感情の類型的経過による解明のもつ明証性)
・もっとも高い「明証性」をもっているのは、目的合理的解明である。目的合理的行動とは、(主観的に)一義的に把えられた目的に対して適合的なものであると(主観的に)考えられた手段を、もっぱら規準にして行われる行動を指すことにしよう。決して目的合理的な行為のみがわれわれにとって理解できるというわけではない。われわれは感情の類型的な経過や、それが行動に対してもたらす推計的な諸結果をも「理解する」。「理解しうるもの」は経験科学にとっては流動的な境界をもっている。(14ページ)
(行為とは考えられた意味をもつ特殊な行動である)
・「行為」というのは、われわれにとっては常に次のようなものである。つまり、「客体」に対する行動のうちで理解可能なもの、すなわち、たとえ多かれ少なかれ無意識であっても、何らかの「懐かれた」あるいは「考えられた」(主観的な)意味をもった特殊な行動のことである。(たとえば)仏教の瞑想やキリスト教の心情的禁欲は、行為者たちにとって「内面的な」諸対象へと、また人間による物財の合理的な経済的な処理は「外的な」客体へと、それぞれ主観的に意味をもって関係させられる。(16ページ)
(理解は心理学的範疇の使用ではない)
・意味をもった関係が同じであることは、作用している「心的な」状態が同じであることを、ただちに意味するわけではない。たとえば「利益追求」というような範疇は「心理学」の中には全然ない。(17ページ)
(理解は、心理学的演繹ではない)
・理解社会学は「心理学」の一部ではない。・・人がそうした行為を「説明する」という場合には、それは絶対に、その行為を「心的な」事態から演繹するという意味ではない。むしろ・・・客体の行動について主観的に懐かれた期待(主観的な目的合理性)から、および妥当な経験に従ったら懐かれたであろう期待(客観的な整合合理性)から、そしてまったくこの両者のみから、演繹するということである。(20ページ)
(主に心理学的な理解可能性)
・「整合合理的に」経過する行為が、いずれも主観的に目的合理的に規定されていたわけではないということを社会学は承知している。またとくに現実の行為を規定しているのは、論理的に合理的に推論しうる諸関係ではなくて、—いわゆる—「心理学的」諸関係であるということも、社会学にとっては自明のことである。たとえば論理的には、神秘的—瞑想的な宗教意識からは他人の救いに対する無関心が、予定信仰からは宿命論や倫理的無律法主義さえもが、「結論」として推論されうる。しかし実際には、前者は、一定の典型的な場合には、一種のオイフォリー(Euphorie)にまで行きつくことがある。このオイフォリーというのは,主観的には独特の無対象の愛の感情として「懐か」れる—そのかぎりで少なくとも部分的に「理解できない」関係が存在している—。そしてこの感情は、社会的行為の中では、しばしば「愛の無差別主義(Liebesakosmisms)」として「消散させ」られてしまう。これはもちろん目的合理的にではないが、おそらく心理学的に「理解しうる」関係である。また予定信仰は特定の(完全に理解しうる)諸条件があれば、積極的に倫理的な行為への能力を、信者にとって彼の個人的な至福の認識根拠にしてしまうことができる。しかもそれは特殊に合理的に理解しうる仕方で行われるのである。そおうえこの資質を一部は目的合理的に、一部は意味をくまなく理解しうるような仕方で満開させることができる。しかし他方においては、予定信仰の立場それ自体は、(前もっと)はっきりと定められていてしかもその諸関係の意味を理解しうるところの人生の運命と、(与えられてものとして甘受しなければならない)「性格」的資質との産物でありうる。このことは「心理学的に」理解しうることである。
要するに、理解社会学にとっては「心理学」との関係は、それぞれの個々の場合において、さまざまである。理解社会学にとって、客観的な整合合理性は、経験的行為に対して理念型として役立つ。目的合理性は心理学的に意味を理解できるものに対して、意味を理解しうるものは理解してないかたちで動機づけられた行為に対して、理念型として役立つ。この理念型と比較することによって、因果的に重要な非合理性(そのときどきでさまざまな語義をもつ)が、因果帰属の目的のために確定されるのである。」(27-28ページ)
(理解可能性と因果性は結合している)
・たしかに「理解」と因果的「説明」とは、出来事のまったく反対の極で研究を始めるのであり、とりわけある行動の統計的頻度はその行動の意味を「いっそう理解しうる」ものにはいささかもしないし、また最大限の「理解可能性」があっても、それだけでは頻度があるということを全然意味しない。それどころか完全な主観的目的合理性の場合には、たいていは頻度が少ないものである。以上のことはたしかに正しいことである。しかしたとえそれがどんなに正しいことであっても、もし社会学が反対するmのがあるとしたら、それは「理解」と因果的「説明」が互いに何らの関係ももっていないという前提である。・・・意味を理解された精神的諸関係や、とくに目的合理的に行われる動機づけの諸経過は、社会学にとっては、因果の連鎖の諸環としてあらわれる資格を完全にもっているからである。・・それはわれわれにとっては、次の場合には使用可能な仮説とみなされれる。すなわち、主観的に意味のある動機づけの連鎖が存在していることの、一定の程度の—その程度は個々の場合できわめてさまざまであるが--「可能性(Chance)」をわれわれが仮定することのできる場合である。(29ページ)
マックス・ウェーバー「理解社会学のカテゴリー」(1913年) (in Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 1922)(岩波文庫、1968年、林道義訳) .
「経済史学に従事する者の立場からしますと、ヴェーバーの歴史学派からの脱却という点においていっそう重要なことは、むしろ歴史学派独特の発展段階説からの脱却の問題ではなかったかと思われます。周知のように歴史学派は、カメラリスムスすなわち官房学派としてスタートしました。ところが、一般に官庁経済学の立場から見れば、個々の経済主体のあり方は、統治さるべき、また観察さるべき経済大量の一つとしてしか問題にならない。// したがって歴史学派のなかにも、たしかにそうした没個性的な理解の仕方が一貫して流れていたわけで、ヴェーバーはまさにそうした没主体的な発展段階説からの脱却を念願し、それがゆえにこそ、経済主体としての人間の行動についての意味理解というものを、かれの歴史学の、また、社会学の方法的基礎にひきすえたのではないかと考えられます。しかし今日の経済学においても、歴史学派的思考様式の影響はなおきわめて根深い。すなわち、発展段階説あるいはa段階論というかたちで、没主体的な歴史学派の亡霊は、きわめて広範に生き残っているのでありました、ヴェーバーの現代的異議がそうした歴史学派的志向との対決にあるという点にあることは、いまさら言うまでもないと思います。」(339-340ページ)
(中川敬一郎「マックス・ヴェーバーと組織論」大塚久雄編『マックス・ヴェーバー研究』(1963年、東京大学出版会)339-345ページ